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横浜地方裁判所 昭和49年(ワ)1415号 判決 1983年5月24日

原告

沢地忠雄

右訴訟代理人

山本博

岡田克彦

島田修一

被告

右代表者法務大臣

秦野章

右指定代理人

真島吉信

主文

一  被告は、原告に対し、金二〇〇万円及びこれに対する昭和五〇年一〇月一八日以降右完済に至るまでの年五分の割合による金員を支払え。

二  原告とその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、各その一を被告および原告に負担させる。

四  この判決は、この判決言渡の日から一週間を経過したときは、主文第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金一〇〇〇万円及び内金三〇〇万円に対する昭和四九年一〇月二四日以降、内金七〇〇万円に対する昭和五六年四月一〇日以降、それぞれ完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  担保を条件とする仮執行の免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因<中略>

3 被告の責任

(一)  公務災害発生防止義務の不履行

(1) 最高裁判所昭和五〇年二月二五日判決(民集二九巻二号一四三頁)が判示する如く、「国は公務員に対し、国が公務遂行のために設置すべき場所、施設若しくは器具等の設置管理又は公務員が国若しくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理にあたつて、公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務」を負つており、そのためには、先ず何よりも公務を通じての労働災害や職業病等の公務災害を発生させぬため万全の措置をとる義務がある。労働安全衛生法第三条、第二四条も右の趣旨を規定し、使用者に、労働者の作業行為の中から当然生ずる疲労や未熟練、不注意等があつても、労働災害を防止するために必要な措置を講じることを義務づけている。

(2) しかるに2(一)のとおり、本件事故の原因は、被告のかかる義務の不履行に由来するものである。

(二)  公務災害発生後、適切な治療をうけさせ、速やかに公務災害認定手続をとる等適切な措置を講ずる義務の不履行

(1) 公務員が公務遂行中、公務に基因して受傷した場合には、国は直ちにその受傷の状況に応じた適切な治療措置を講じ早急適正な公務災害認定手続をとる等、公務員の健康、生命、今後の生活補償等につきできる限りの配慮を行うべき義務を有している。これは公務災害等の補償制度制定の趣旨から明らかである。

(2) しかるに(2)のとおり被告は、本件事故後集配課課長代理石井浩が「病院に行つても仕事中怪我をしたというな。健康保険証を使え。」と指示したように、公務災害の認定を制限、回避する傾向が強く、本件事故については、原告が島田医院の島田医師から受傷時の状況を聞かれたため公務中の事故であることが判明し、昭和三九年五月二三日にいたつて漸く公務災害と認定されたものである。

これは、国が公務災害で受傷した職員に対し、早急に適正な公務災害認定手続をとるなどして、同職員をして公傷扱いで勤務の心配なく十分な静養治療を受けさせ、もつて同職員の健康、生命、今後の生活補償等につきできる限りの配慮を行うべき安全配慮義務があるのにこれを怠つたことに他ならず、これにより原告の本件事故による傷害の増悪が促進されたものである。

(三)  公務員の健康状態を的確に把握し、それに適した職場に配置し、健康状態を悪化させないよう配慮すべき義務の不履行

(1) 被告国は、勤務する職員の健康状態を的確に把握し、職員の健康状態に適した職務に配置すべき義務がある。そして、被告国(郵政省)は、職員採用時に健康診断を行うとともに、毎年四月から九月までの間に定期の健康診断を実施し、職員の健康状態を確認し、更に職員が病気欠勤をする場合には医師の診断書を原則として提出させており、また、国(郵政省)の職員に対する安全配慮義務の履行補助者たる管理者を通じて日常、職員の勤務状態、健康状態を観察、確認しているのであるから、職員の健康状態を正確に把握できる立場にある。

(2) そして、原告の場合、具体的には

(ア) 被告が、本件事故発生の際、講ずべき治療の指示、公務災害認定手続等の措置を適切に取つておれば、その時から原告の受傷の状況を十分に把握することができたはずであつた。

(イ) また、本件事故は、2(一)のとおり、当初原告の上司の指示により私傷病として扱われてしまつたのであつたが、結局は、昭和三九年五月二三日、公務災害と認定されたのであるから、被告は、少くとも右認定資料である島田医院の診断書や事故現認書、事故報告書等の関係記録の所持、保存を通じて原告の受傷の状況を十分把握することができたはずであつた。

(ウ) 次に、原告は、昭和三九年五月一六日から同月一九日まで欠勤した際、被告に対して、田口外科医院の右ひざ側靱帯挫傷の診断書を提出し、その結果右欠勤は病休として処理されたのであるから、被告はこの際にも原告が本件事故と類似したひざの疾患で病休したことから、本件事故による左ひざの増悪を知り得たはずであつた。

(エ) さらに、原告は、2(四)のとおり昭和四〇年八月ころ、当時の神奈川郵便局管理者を通じて、被告に対し、病気があるので自宅近くの保土ヶ谷郵便局の内務職へ配置換してほしい旨要望したのをはじめとして、以後一貫して局内の座位作業に配置換してほしい旨要望したのであるから、被告はこれらの要望を通じても原告の左ひざの増悪を知り得たはずであつた。

(3) しかるに、2(一)ないし(八)のとおり、被告は昭和四九年三月五日まで原告の右要望を一切聞き入れず、同日原告を第一保険課に配置換するまで一貫して右安全配慮義務を怠り、それによつて、前記のとおり原告の疾病を増悪させ、原告に後記損害を被らしめたものである。

4 原告の損害<省略>

三  抗弁

1  責に帰すべき事由の不存在

(一) 本件事故のころ、被告は取集作業に従事する原告に対し、右作業に必要な安全、衛生教育を尽したのであり、本件事故の発生につき被告に責に帰すべき事由はない。

(二) 被告は、本件事故についての公務災害認定手続を適法になしており、この点においても被告に責に帰すべき事由はない。

(三) 被告は、原告の配置換については、昭和四〇年八月ころの保土ヶ谷郵便局への配置換希望に対する処理にみられるように、原告の希望を十分にしんしやくし、健康状態を考慮して、その職種において配置換可能な、しかも原告に最も適した業務に原告を配置してきたもので原告が昭和四四年一一月五日関東逓信病院に入院する直前の同年一〇月一七日から同年一一月四日まで及び同年一二月二〇日に同病院を退院して昭和四五年一月五日第二集配課の職場に復帰してから同年九月一〇日頃までの間も原告の希望をいれて、戸別組立等の局内作業に従事させた。そして、同年三月ころ原告が診断書を提出してはじめて内務職への職種変更の申出をなしたので、被告は原告に対し職種変更に必要な筆記試験を実施したうえ同年九月四日付けをもつて原告の職種変更を承認し、局の普通郵便課に定員のわくができた同月一一日付けで主に座位作業である普通郵便課事故係に配置換をする配慮をし、同係においては料金未納又は料金不足あるいはその他の規定違反郵便物の処理等の作業にあたらせた。さらに原告は昭和四七年三月、特定局または貯金課か保険課への配置換を申し出たが被告は、原告の通院等のためには普通郵便課の方が適切であると判断したところ、原告もこれを了解した。そして、原告の昭和四八年六月二六日付けの内務職への転勤希望についても被告はこれを了承し、この希望を容れようと努力したが受入局に欠員がなかつたためこれが実現しなかつたが、昭和四九年一月中旬の貯金課か保険課への配置換の希望に対しては、同年三月ころ第一保険課に欠員が生じたので、同月五日付けをもつて同課の内務職へ配置換を行い、座位による軽作業に従事させたのである。以上のとおり、被告はその都度、原告の健康状態、治療等健康管理に必要な指導を行つて、原告の配置につき最大限の配慮を払つてきたものである。また、本件事故による傷害は、昭和三八年一二月一一日頃治癒しているものであるから、被告が、原告の疾病が再発に至る昭和四四年一〇月ころまでの間において原告の配置換を特に考慮しなかつたとしても、原告の配置換に関する被告の措置は任命権者の裁量にゆだねられている範囲内のものであり、これに何らの違法はない。よつて、この点についても被告に責に帰すべき事由はない。

2  過失相殺

原告の左ひざの疾病が悪化したのは、①昭和三九年五月一六日に田口外科医院で左ひざ側靭帯挫傷と診断された事故、②昭和四〇年一〇月八日、小包配達中、横浜市神奈川区白幡西町六三番地先の小さな石段を自転車に乗車したまま下つたところスリップして転倒して臀部を打つた事故、③昭和四三年三月五日、当時の横浜中央郵便局仮設局舎の階段の鉄製のすべり止めに原告のはいていた木製サンダルが滑つて転倒し鼻等を打撲した事故、④同年一一月三日、横浜市神奈川区白幡西町二六番地先で配達作業中、コンクリート製の階段が部分的にはがれているところに自転車が乗つて転倒し、左足首の関節を捻挫した事故にみられるように原告が一方的かつ重大な過失により本件事故とは別の各事故を惹起したり、原告が休憩時間や勤務時間外において積極的に組合活動に参加して動きまわり、頻繁に足を使う等、原告が自己自身に対して配慮すべき健康管理義務を怠つたことによるものである。よつて、被告は仮定的に過失相殺の主張をする。

3  損害の填補

原告は、本件事故に対しては公務災害の認定を受けて、療養に要した費用については療養補償を受けており、今後も治癒するまでの間その費用が支払われるものである。また、右疾病が治癒したとき、国家公務員災害補償法第一三条の規定に該当する場合には、障害補償を受けられることになつている。よって、原告には何ら損害がない。

4  仮に被告に安全配慮義務違反があり、原告に損害賠償請求権が認められたとしても、原告が請求原因の追加的変更(原告は、昭和五〇年一〇月一七日付準備書面により被告の民法四一五条による債務不履行責任の主張を追加した)をした昭和五〇年一〇月一七日から一〇年以前の損害については、時効により消滅しているので、被告は、これを援用する。

四  抗弁に対する認否<省略>

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1(原告は、昭和三八年九月二一日、当時の神奈川郵便局((後に横浜中央郵便局と名称変更))集配課臨時雇として郵政省((被告国))に採用され、同三九年八月四日、同局集配課事務員に任命され、同四三年九月一日、横浜中央郵便局集配課郵政事務官に任官し、同四五年九月一一日、同局普通郵便課事故係勤務となり、同四九年三月五日、同局第一保険課に配置換された者であること、原告は、昭和三八年一一月二一日、当時の神奈川郵便局の担当医務機関である横浜逓信病院の健康管理医により身体検査を受け、郵政外務職として身体検査総合成績に全て異常なく甲種とされたものであること)は当事者間に争いがない。

二請求原因2について

1  原告の受傷、作業歴、病歴、治療経過

(一)  次の事実は当事者間に争いがない。

(1) 原告の昭和三八年一二月当時の集配課での業務は、日逓の従業員の運転する郵便車に同乗し、郵便物の取集作業を行うこと及び自転車による小包配達作業を行うことであつたところ、原告は、同月二日、いつもと同様に一号便の郵便車に乗車して午前七時ころ局を出発し、同七時四〇分ころ横浜市中区山下町一―一国際貿易会館に到着し、同会館地下室に設けられている私設郵便差出箱から郵便物を取集し、右郵便車に戻る途中、右郵便差出箱付近に放置されていた三台の鉄製の手押車のうち外側の一台に左ひざを当て、傷害を受けた。

原告は、受傷後も業務を続けて午前八時一五分ころ帰局し、その日は二号便に乗車することなく早退し、同月五日島田医院に赴き、同日から同月九日まで通院加療を要するとの診断を受けた。

(2) 原告は、昭和三九年一月、年賀要員として郵便物配達作業に従事した。

(3) 原告は、昭和三九年二月ころから再び郵便車による取集作業と自転車による小包配達作業とに従事した。

(4) 原告は、昭和四〇年四月ころから、集配課において市内通常配達一二班(横浜市神奈川区白幡方面)の担当の自転車による郵便配達に専門で従事したが同年五月一三日から同月一九日まで右腓骨骨頭骨腫瘍疑等により病休した。原告は、同年八月ころ、病気があるとの理由で自宅近くの保土ヶ谷郵便局の内務職に配置換を希望した。

(5) 原告は、昭和四二年三月八日、九日、一八日の三日間、左ひざ関節炎のために、また同年八月一二日から三日間前同様左ひざ関節炎のためにそれぞれ病休した。

(6) 原告は、昭和四四年六月一〇日、一七日、二四日、同年七月一日、一五日、二九日と関東逓信病院に通院し、治療を受けた。昭和四四年九月二二日付横浜市民病院の原告に対する診断書、すなわち、「左外側半月板損傷の疑い、上記診断により昭和四四年九月二〇日から二週間作業中止、治療を行う事」との診断書がそのころ局に提出された。原告は、昭和四四年一一月五日、関東逓信病院に入院したが、原告は同年一〇月一七日ころから入院までは局の指示により道順組立等の局内作業に従事した。原告は、同年一一月一九日、同病院で左ひざ外側半月板切除の手術を受け、同年一二月二〇日、同病院を退院し、同四五年一月四日まで自宅療養した。

(7) 原告は、昭和四五年一月五日に局の第二集配課に復帰し、その際小林課長に局内作業(内勤の貯金、保険等の座位作業であるかについては争いがある。)への配置換を要請したところ、当面の措置として同日から昭和四五年九月一〇日まで道順組立等の局内作業に従事させられ、昭和四五年九月一〇日に普通郵便課(内務職)事故係に配置換された。

事故係の作業内容として、(10)を除くほか原告主張のような作業がなされることがある。

原告は事故係において少なくとも①あて名不完全、料金未納、不足、規定違反郵便物の処理、②破損、毀損郵便物の処理、③還付不能郵便物の処理の各作業に従事した(ただし、原告は、これ以外の原告主張のすべての作業にも従事したと主張する。)。

関東逓信病院の医師は、昭和四七年三月二日、そのころ事故係の作業に従事していた原告につき、夜勤は現状では不可能である旨診断を下した。原告は、昭和四五年九月及び同年一〇月に各一日(ただし、同年九月については少なくとも一日という意味である。)、同年一一月に二日、同年一二月に三日、昭和四六年一月に二日、同年二月に四日、同年三月に三日、同年四月に三日、同年五月に四日、同年六月に一日、同年七月に三日、同年八月に五日、同年九月に一七日、同年一〇月に一一日、それぞれ公傷扱いで休業した。原告は、昭和四六年一一月一〇日、関東逓信病院に再入院し、二度目の手術(第二回手術)を受け、同月二一日退院した。

(8) 原告は、昭和四八年八月二〇日、野口整形外科医院で「外側半月板損傷術後(左)腰部筋筋膜炎」と診断され、二週間の安静を命ぜられ、同月三一日、同医院で「九月三日から出勤を許可する云々。歩行はできるだけ避け、座位作業が望ましい。」と診断され、原告は右診断書を病休承認申請書に添付して局に提出した。原告は、昭和四八年九月二五日、伊豆逓信病院に入院して左ひざの三度目の手術を受け、同年一二月一七日に退院した。そして、昭和四九年一月二五日まで自宅療養をし、同年一月二六日から事故係に復帰し、同年二月二七日、二八日、同年三月一日、一二日と欠勤した。原告は、同年三月五日、第一保険課に配置換となつた。

(二)  <証拠>を総合すれば、次の事実が認められ<る。>

(1) 本件事故

前記のとおり原告の昭和三八年一二月当時の集配課での業務は、日逓従業員の運転する郵便車に同乗し、郵便物の取集作業を行うことであり、同課の勤務体系は、午前六時五〇分ころ局に出勤し、同七時ころ郵便車に乗車して局をたつて、取集作業を行い、同八時過ぎころ帰局し(以上を一号便という。)、その後局内で小包配達準備の区分け作業に従事し、同九時過ぎころ再び郵便車に乗車して局をたつて、取集作業を行い、同一一時過ぎころ帰局し(以上を二号便という。)、一時間の休憩後自転車で小包を配達し、午後二時すぎにその日の勤務が終了するというものであつた。

そして、原告は、同月二日、前記のとおりいつもと同様一号便の郵便車に日逓の佐藤運転手とともに乗車して午前七時ころ局を出発し、同七時四〇分ころ横浜市中区山下町一―一国際貿易会館に到着し、同会館地下室に設けられている私設郵便差出箱から郵便物を取集し、右郵便車に戻る途中、同郵便差出箱付近に放置されていた三台の鉄製の手押車のうち外側の一台に左ひざを強打し、左ひざ関節打撲及び擦過傷の傷害を受けた(本件事故)。(なお、原告は、本件事故の原因として①原告が佐藤運転手の助手の立場にあつたことなどにより心理的に追い立てられていたこと、②取集の所要時間に余裕がなく、ポストの位置が不適切で、原告は駆足による取集を余儀なくされていたこと、③安全教育等の不足、④前記郵便差出箱の設置許可自体の不適切を主張するが、本件全証拠によるも右主張事実を認めることはできない。むしろ、<証拠>によれば、原告は入局後本件事故までに約二か月と経験年数は少なかつたものの、本件事故の場所については知悉していたのに、熱心さの余り帰局をあせり、前方のみに気をとられていたため、前記手押車に気付かず、これに衝突したこと、また、右手押車の置き方自体が危険で不適切であつたこと、が認められ、これらのことからすると結局、原告自身の不注意と手押車の置き方の不適切さとが本件事故の原因であつたというべきである。)。

原告は、本件事故のためその場にしやがみ込み、二、三分立つことができなかつたが、漸くのことで足を引きずりながら前記郵便車に戻り、痛さをがまんして前記のとおりその後も業務を続け、同日午前八時一五分ころ帰局した。原告は、帰局後、藤巻英太郎郵便外務主事に本件事故を申し出で、同人からマーキュロの塗布を受けたのち、左ひざの痛みに耐えかねて、前記のとおり二号便に乗車することなく早退し、帰宅途中自宅近くの田口外科医院で治療を受けたところ、左ひざ関節打撲傷で一週間の休業加療を要するとの診断を受け、同日及び同月四日、同医院に通つて治療を受けた。更に同月五日から九日までは横浜市保土ヶ谷区帷子町の島田医院で治療及びレントゲン撮影を受けたところ、やはり左ひざ関節打撲傷で右期間中通院加療を要するとの診断を受け、右の期間中通院し(なお、本件全証拠によるも、原告が本件事故の直後、帰局した時集配課課長代理石井浩から「病院に行つても仕事中怪我をしたと言うな。健康保険証を使え。」と指示された事実は認めることができない。)、同月一一日治癒した旨の診断を受けた。

(2) 昭和三八年一二月一〇日から昭和三九年一月まで

原告は、昭和三八年一二月一一日、いまだ左ひざに痛みは残つていたが、右治療の結果治癒した旨の診断を受けたので、そのころから昭和三九年一月末日まで年賀要員として自転車による通常郵便物の配達作業に従事した。

(3) 昭和三九年二月から昭和四〇年三月ころまで

原告は、昭和三九年二月ころから再び郵便車による取集作業と自転車による小包配達作業に従事するようになり、昭和四〇年三月ころまで続いた。そして、原告は、右各作業の過程で、一つには、郵便車から頻繁に乗り降りする動作をくり返し、いま一つには自転車による配達の際自転車が倒れるなどして、左ひざに無理な負荷がかかることがしばしばであつた。

なお、本件事故による受傷につき昭和三九年四月二二日ころ公務災害認定申請がなされ、同年五月二三日、公務災害の認定がなされた。

(4) 昭和四〇年四月ころから同年一二月まで

原告は、昭和四〇年四月ころから、集配課において自転車により市内通常配達一二班(横浜市神奈川区白幡方面)を担当する郵便配達業務に専門的に従事するようになつたが、右区域は階段や山坂の多い地形であり、そのため原告は、自転車をこぐ動作を行うことによつて、左ひざに無理な負荷をかけることになつてしまつた。

原告は、このように左ひざに無理な負荷がかかる作業から何とか内務職に配置換してほしいと考えるようになり、同年八月ころ、当時の神奈川郵便局飯田竹十集配課長に、口頭でそけいヘルニアがあるので自宅近くの保土ヶ谷郵便局の内務職に配置換してほしい旨要請したが、同局が過員のためかなえられなかつた。

(5) 昭和四一年から昭和四三年まで

原告は、この間従前の業務に従事し続け、昭和四一年三月には横浜市立鶴見工業高等学校定時制を卒業した。同校在学中は、原告は体育の授業にもさしたる支障はなかつた(なお、昭和四一年一一月ころ、局は横浜中央郵便局と名称変更された。)。しかし、前記作業に従事するうち、原告の左ひざになおも負荷がかかり、原告は左ひざ関節炎等で病休(病気休暇、以下病休という。)することが多かつた。

(6) 昭和四四年

昭和四四年に入つても原告は従前と同様の作業に従事していたころ、同年六月、原告の左ひざの痛みは一層激しくなり、左足に重圧感を覚え、足を完全に伸ばすこともできなくなり、便所に行くのも困難になつた。そのため原告は、同月五日から一二日まで欠勤したが、この間の同月五日から七日にかけての一日、局の鈴木集配課長が原告の自宅を見舞つた。その際、原告は、同課長に本件事故以来の関係書類を示し、ここ数年ひざの病気で治療を受けている旨説明すると、同課長は右経過をメモするとともに、原告に対し、関東逓信病院で精密検査を受けるようすすめたので、原告は、同月一〇日、右病院で診察を受けた。その結果、原告は左ひざ関節炎と診断され、同病院の医師から一週間に一回の継続的通院をするよう指示された。そのため、原告は、同月一七日、二四日、同年七月一日、一五日、二九日と同病院へ通院し、治療を継続した。この間も原告の左ひざの痛みは続き、原告は、通院の便宜のため、同年八月二二日ころ横浜市保土ヶ谷区岡沢町所在の横浜市民病院へ転院し、同月二六日、同年九月二日、一六日、一九日、二〇日と同病院に通院した。そして、同月二二日(この時初めて)、同病院で「左側半月板損傷の疑い、上記診断により、昭和四四年九月二〇日から二週間作業中止、治療を行うこと」との正確な診断を受け、この診断書をその頃局に提出し、同年一〇月三日まで自宅で安静にし、治療を行つた。

原告は、このように左ひざの症状が重く、治療期間が長期になつたことにより、同病院から郵政省関係の逓信病院で治療を受けるようにすすめられたので、同年一〇月一七日、再度関東逓信病院で治療を受けたところ、「入院になるので、外勤はしないように、また手術後も外勤は無理である。」旨指示された。そして、同日、「左ひざ関節痛は本件事故に起因するものと思われる。」との同病院の意見書が出されたので、原告は、これを後記再発認定申請の過程で局に提出した。

原告は、同年一一月五日同病院に入院し、同月一九日左ひざ半月板切除の手術を受け(第一回手術)、同年一二月二〇日同病院を退院し、同四五年一月四日まで自宅で療養した。なお、原告は局の指示により、昭和四四年一〇月一七日から入院までは集配課の外勤作業には出ず道順組立等の局内作業に従事した。

(7) 昭和四五年一月五日から昭和四七年三月一〇日まで

原告は、昭和四四年一月五日、職場に復帰したが、その際、職種転換が必要である旨の医師の診断書を局の上司である小林甚一集配課長に提出して貯金、保険等の座位作業等適切な職場への配置換を求めたところ、局から、当面の措置として、同日以後入院前と同様に道順組立等の局内作業に従事するようにといわれこれに従事した。そこで、原告は、同年三月一〇日、小林課長になお前同様の配置換の依頼をする一方、自己の所属する組合の松本正書記長に対して診断書の写を見せ、配置換への協力方を要請した。その結果、同書記長は、同年四月ころ、局の栗原庶務課長に対して、原告を官執勤務に配置換するよう要望した。

また、原告は、昭和四四年九月ころから左ひざの半月板損傷が公務災害の再発認定されるのではないかとして手術を開始していたところ、昭和四五年六月二三日、右傷害は、本件事故に基づく公務災害の再発との認定が下され、昭和四四年一〇月一七日に遡つて病休等が公務傷害扱いとされた。

そして、昭和四五年八月四日、局は、原告に内務職への変更試験を受けさせ、原告は同年九月四日に合格し、同月一〇日、内務職たる普通郵便課事故係(別館四階)に配置換された。

右の事故係において原告が従事した作業は次のとおりである。

(ア) 局三階の第一、第二集配課に行き、転送、還付の郵便物を受領し、それをひものついたファイバーに入れるなどして引つぱつて四階に持つてきて、神奈川県下の葉書、封書(「県下小型」という。以下同じ用法である。)の区分棚で転送先毎、還付先毎に区分する作業

(イ) 県下小型及び大型の区分棚の事故区分口から宛名不完全、料金未納、不足その他規定違反の郵便物を取集めるほか三階の普通郵便課の配達区分及び機械室の区分棚から事故郵便物を取集めてきて正当処理をしたうえ区分棚に置いてくる作業

(ウ) ポストから集めてきた郵便物の中から発見される料金未納、不足、規定違反、破損の郵便物や区分機、取揃押印機により破損した郵便物を県下小型の区分棚、地方小型の区分棚、東京番号区分棚、機械室の区分棚に取りに入つたり、あるいは、破損部分や脱出品(封筒の中身)を機械の中から探し出し、正当処理、修理等を行つて該当区分口まで持つていく作業

(エ) 受取人不在で料金未納又は不足の郵便物を受取人が受領に来た時、四階の事故係席で右郵便物を交付したり、受取人が切手を持参しなかつた場合、エレベーターを使用し(場合によつては使用できないこともある。)一階の窓口係に案内して、切手の交付を受ける作業

(オ) ポスト上りの郵便物の中から書留郵便物が発見されたとき、正当な切手が貼つてあれば書留登記簿に記録した上一階の窓口係に持つて行つて同係に交付し、料金不足の場合には客を呼出して正規の処理をする作業

(カ) 宛名不完全、料金未納、不足の郵便物、料金受取人払郵便物の料金を外務員が集金してきたとき、その料金を受取り、処理する作業

(キ) 還付不能郵便物を還付不能登記簿に記録した上主事席に交付する作業及び郵便物の脱出品を捜索し、どうしても出ない場合は、その郵便物を登録簿に記録した上主事席に交付する作業

(ク) 差出人から事故係に郵便物取戻の連絡があつた場合、右申出を受けて差出人の住所、氏名、受取人の住所、氏名をメモ用紙に書いて該当区分棚に貼布し、該当郵便物が発見されたかを確認し、発見されたときはこれを差出人に還付する作業

(ケ) 規定違反の郵便物を発見した時、自分で判断できる分については客に連絡し、判断できない分については計画係の主任に相談して判断を仰ぎ、処理する作業。なお現金封入の郵便物があつた場合本館一階の窓口係に持参しなければならない場合がある。

(コ) その他電話の応対等の作業

以上事故係の作業は、従前鈴木、山田の両係員が担当していたもので、そこに原告が付加される形で配置されたのであるから、各人の事務量としては普通郵便課の他の仕事と比べて多いものではなく、かつ座位作業の多い作業であつたが、原告は特に職務内容とか作業内容とかを限定されることなく右作業全般を担当したので(もちろん、右各作業の中には一か月に数回しかないような作業もあつたが)、原告は区分作業等立位作業を余儀なくされ、また、結果的に局内を相当歩き回らざるをえない作業もあり、そのことが原告の左ひざの疾病に悪影響を及ぼした。

また、原告は、事故係の作業を日勤(午前九時二〇分から午後五時五分まで)のみならず、少なかつたとはいえ(例えば昭和四五年一二月に三回、昭和四六年一月に五回)夜勤(午後一時三五分から同九時二〇分まで)も担当し、夜勤の場合郵便物の量が多いためおのずから原告が局内を歩き回る回数も増加し、前記悪影響が増大した。ただし、昭和四六年一月二八日から同年三月末日までについては、このころ関東逓信病院の医師が「寒冷地勤務を避けよ。」との診断を下したので、当局はいつたんこの間の原告の夜勤を中止したが、同年四月一日からは原告に再度夜勤を命じた。そして、昭和四七年三月二日、同病院の医師が再度「夜勤は現状では不可能である。」と診断を下した結果、それ以後原告の夜勤が中止された。

以上のとおり、原告の事故係における作業は、原告の左ひざに悪影響を及ぼすものであつたといわざるを得ず、原告は右作業に従事することによつて左ひざに一層しびれ感と激痛とを覚えるようになつていつた。

そのため原告は、昭和四五年九月に二日、同年一〇月に一日、同年一一月に二日、同年一二月に三日、昭和四六年一月に二日、同年二月に四日、同年三月に三日、同年四月に三日、同年五月に四日、同年六月に一日、同年七月に三日、同年八月に五日、同年九月に一七日、同年一〇月に一一日と左ひざの痛みのために欠勤し、関東逓信病院に通院した。

原告は、この間の昭和四六年三月、上司である伊藤普通郵便課長らに対して左ひざが痛くてとても事故係の仕事はやつてゆけないので、足を使わない座位作業に配置換してほしい旨要請したが、同人らは、外務職から官執勤務へ移るのはすぐには無理であるから事故係で三年位はしんぼうしろというのみで、右要請はかなえられなかつた。

こうして原告の左ひざの症状はなおも悪化し、原告は、昭和四六年一一月一〇日、関東労災病院において第二回手術を受け、昭和四六年一二月二一日、同病院を退院したが、左ひざの痛みは依然として残り、正常に歩行することができなかつたため、同病院の医師の指示により昭和四七年三月一〇日まで自宅で治療に専念し、この間の同年二月二九日からは同病院で徒手矯正、医療体操等の理学療法を受けた。

原告は、退院後職場復帰する昭和四七年三月一一日までの間である昭和四六年一二月末、昭和四七年二月九日ころ、同年三月三日と三回にわたり上司である持田普通郵便課長、神石郵便部長らに対して座位作業への配置換を要請したがかなえられなかつた。

(8) 昭和四七年三月一一日から同四九年まで

原告は、同年三月一一日の職場復帰後も依然として事故係の前記作業に従事した。

そして、その結果原告の左ひざの疾病は増悪し、原告は昭和四七年三月に一三日、四月に一一日、五月に一二日、六月に一三日、七月に六日、八月に七日、九月に八日、一〇月に八日、一一月に九日、一二月に六日とそれぞれ作業の傍ら通院したり自宅療養せざるを得なかつた。

原告は、この間の昭和四七年四月以降は植村庶務課長に、七月以降は桜井普通郵便課長にそれぞれ何回となく座位作業への配置換を要請し、さらに昭和四八年二月以降は東京郵政局の人事相談室に苦情を申し入れるなどしたが、右要請はかなえられなかつた。

原告の左ひざは昭和四八年七月ころから一層増悪し、同年八月二〇日、自宅近くの野口整形外科医院で診察を受けたところ「外側半月板損傷術後(左)腰部筋筋膜炎」と診断され、二週間の安静を命ぜられた。原告はそのため自宅で療養することになつたが、同月三一日、右医院で診察を受けたところ「九月三日から出勤を許可する云々。歩行はできるだけ避け、座位作業が望ましい。」との診断が出たので、同年九月三日から前記事故係に復帰するとともに、右診断書を病休承認申請書に添付して局に提出し、配置換を要請した。

しかし、原告の右要請はかなえられないまま、その後左ひざの症状は一層増悪し、原告は同年九月二五日、伊豆逓信病院に入院して第三回手術を受け、同年一二月一七日退院した。そして、昭和四九年一月二五日まで自宅療養をし、この間の昭和四八年一二月一八日、原告は佐野庶務課長に配置換を要請するなどしたが、右要請もかなえられず、翌四九年一月二六日から前記事故係の職務に復帰した。そして、原告は、左ひざに再び痛みを覚えるようになり、同年二月二七日、二八日、同年三月一日、一二日と欠勤せざるを得なかつた。

その後、原告は同年三月五日、第一保険課に配置換され、もつぱら座位作業に従事することになつたが、現在に至るも左ひざの症状は固定せず、原告は毎月一回、伊豆逓信病院に通院して治療を受けている。尤も、現在においては右疾病が増悪する兆候はない。

2  事実的因果関係

右1(一)の説示、(二)の認定の各事実からすると、本件事故により被つた原告の左ひざの疾病は、昭和三八年一二月一一日頃一たんは治癒した旨の診断を受けたものの、原告がその後郵便車による取集作業、自転車による配達作業などに従事したため、これらによる左ひざへの無理な負荷により、右疾病が再び悪化して再発し、昭和四四年一〇月一七日ころ右疾病の再発が確定的となりその後道順組立て等の局内作業を経て昭和四五年九月一〇日、原告が普通郵便課事故係に配置換されたことによつて以前よりその左ひざへの負荷が減つたものの、同係における作業も座位作業に限定されずなお局内を歩き回らざるを得ない作業であつたことから右疾病は更に増悪し、その後二度(第二回、第三回)の手術を受けざるを得なくなり、第三回目の手術を受けてもいまだ完治しない状況に立ち至つたことが明らかである。

なお、<証拠>を総合すると、原告は、①昭和三九年五月一六日ころ右ひざ側靱帯挫傷を負い、田口外科医院で治療し、同日から同月一九日まで病休した(以下「その他の第一事故」という。)こと、②昭和四〇年一〇月八日、配達作業中、横浜市神奈川区白幡西町六三番地先の小さな石段を自転車に乗車したまま下ろうとしたところスリップし、転倒して臀部を打撲する事故を起こした(以下「その他の第二事故」という。)こと、③昭和四三年三月五日、当時の横浜中央郵便局仮設局舎の階段の鉄製のすべり止めに原告のはいていた木製サンダルが滑つて転倒し鼻を打つ事故を起こした(以下「その他の第三事故」という。)こと、④同年一一月三日、横浜市神奈川区白幡西町二六番地先の階段で配達作業中、コンクリート製の階段が部分的にはがれているところに自転車が乗つて転倒し、そのため左足首を捻挫し、同月四日から一三日まで欠勤する事故を起こした(以下「その他の第四事故」という。)こと、右はいずれも原告が自己の過失により負傷した事案であることが認められるところ、これらの事故が原告の左ひざ疾病の増悪の原因かどうかの点については、これら事故による負傷は、いずれも原告の左ひざの傷とは部位において無関係のものであつて、右事故と原告の左ひざの傷との間の事実的因果関係の認め難いものであるから、原告の左ひざの傷の増悪を、これらの事故と結びつけて考えることはできないとみるべきである。

さらに<証拠>によれば、原告は第一保険課に配置換されてからも依然として多数回の病休を重ねている事実が認められるけれども、現在においては、原告の本件疾病の増悪の兆候がみられないことは前認定のとおりであるから、右の病休を重ねている事実だけでは、いまだ右認定、判断を左右するに足りないというべきである。

さらに、原告の左ひざの傷の増悪と原告の組合活動との関係については後記三3(三)のとおりである。

三請求原因3について(被告の責任)

1 請求原因3(一)の主張について

この点については、被告において原告が同3(一)(1)で主張するような一般的な義務を負つていることは当然である。しかしながら、本件事故の発生は原告自身の不注意と、手押車の置き方の不適切さに基づくものであり、これにつき被告が安全配慮義務を怠つたとはいえないことは前記二1(二)(1)の認定から明らかである。したがつて、同3(一)の原告の主張はこの点ですでに理由がなく、採用できない。

2 同(二)について

この点についても、被告が原告主張のような一般的な義務を負うことは当然であるが、被告の公務災害認定手続に特段の落度は見出し難いので(なお原告が本件事故直後集配課課長代理石井浩から「病院に行つても仕事中怪我をしたと言うな。健康保険証を使え。」と指示された事実が認め難いことは二1(二)(1)説示のとおりである。)、原告の主張は理由がない。

3 同(三)について

(一) 被告は、労働基準法、労働安全衛生法(昭和四七年法律第五七号)、労働安全衛生規則及び郵政省健康管理規定(昭和四〇年郵政省公達第六九号)等の趣旨に基づき、常に局職員の健康、安全のため適切な措置を講じ、職業性及び災害性の疾病の発生ないしその増悪を防止すべき義務を負つているだけでなく、職業性又は災害性の疾病に罹患していることが判明し又はそのことを予見し得べき職員に対しては、疾病の病勢が増悪することのないように疾病の性質、程度に応じ速やかに就業の禁止又は制限等を行うことはもとより、場合によつては勤務又は担当職務の変更を行う適切な措置を講ずべき注意義務を負つているものというべきである。

(二)  これを本件についてみるに、二1(一)、同(二)に説示、認定したとおり、原告は、昭和四四年九月ころから左ひざの傷につき再発認定の手続を開始し、右手続の過程で被告に対し、昭和四四年一〇月一七日付関東逓信病院の「左ひざ関節痛は本件事故に起因するものと思われる。」旨の意見書を提出しているし、これより前の同年六月五日から七日頃までの間の一日間にも、局の鈴木集配課長が原告宅を訪問して原告のそれまでの病歴等をメモして帰つたのであるから、これらの事実にその余の右(一)、(二)の事実(特に同年一一月五日、原告が関東逓信病院に入院し、同月一九日、第一回手術をうけた事実)を併せ考えると、被告としては遅くとも昭和四四年一一月ころには原告の左ひざが本件事故による傷の再発により関節痛を惹起していること、しかも右再発の原因は原告が外勤作業に継続的に従事したことにあることが推認できたのであるから、今後は原告を外勤作業からはずしたり、又は少なくとも立位の作業や、その他のひざを頻繁に使用する作業を避けさせるべきことを知り、又は知り得たはずであり、したがつて、この時点で被告には右の認識に基づき原告を適切な職場に配置換し、又はその従事する作業内容を限定するなどして原告の公務災害の病状の増悪を抑制、回避させるよう配慮すべき義務が具体的に課されたというべきである。

なお、右説示、認定のとおり、昭和四五年六月二三日に、原告の左ひざの半月板損傷につき、公務災害の再発認定までなされているのであつて、このこともまた右の判断を支えるものである。

昭和四四年一一月頃以前、特に原告の第一回手術以前の段階においても、被告が、一般的にその職員の疾病の増悪回避義務を負つていたことは当然であるが、前同様前記の説示認定からすると、原告に対する関係において、原告の本件事故による左ひざの傷は昭和三八年一二月一一日頃一旦は治癒したとの診断を受けたのであり、この旨を知つていたと推認される局において、原告の配置換を特に行わなかつたからといつてその点で被告に右増悪回避義務違反を問責することはできないというべきである。

(三) 前同様右の説示認定からすると、原告は、昭和四四年一〇月一七日から翌四五年九月一〇日まで第二集配課に属してはいたが、局の指示により外勤作業には一切従事せず、道順組立等の局内作業(前掲各証拠によれば、この作業は座位の軽作業であり、原告の左ひざの疾病を増悪させるものでなかつたことが明らかである。)に従事したにすぎないことが明らかであり、右の期間中に被告が原告に対してとつた措置につき違法のかどはない。

また、<証拠>によると、郵政省の内務職は郵政省職員採用規定(昭和四一年公達第一〇二号)により試験対象官職とされていることが認められるのであるから、前記のように、局が昭和四五年八月四日原告に内務職への変更試験を受けさせ、被告において右試験に合格した原告を、同年九月一〇日に内務職たる普通郵便課事故係に配置換する措置を講じたことについてももとより違法の点はなく、むしろこれは適切な措置であつたとみなければならない。

しかしながら、右事故係において原告の従事した作業は被告の主張するような規定違反郵便物の処理第三種類の座位作業に限定された作業でなく、それをも含み多種類にわたる作業であることは前記認定のとおりであつて、原告が右事故係として、区分作業等の立位作業や、結果的に局内を相当に歩き回らざるをえない作業に従事することを余儀なくされ、また一般的にしろ局内を歩き回わる回数のより多い夜勤をもせざるをえず、これらのことが原告の左ひざの疾病の病状の増悪を招いたこともまた前認定のとおりである。

そして、前同様前記説示、認定及び弁論の全趣旨からすると、被告が原告を右事故係に配置換した時点において、そうでなくても、その後原告が右事故係の作業に従事していた期間中の早い時期において、被告が、右事故係における原告の作業内容を座位作業に限定するなどして、原告の左ひざに負担のかからないように配慮を尽していれば、原告の左ひざの疾病の症状増悪の抑制、回避の蓋然性や前記の原告の第二回手術、第三回手術の回避の可能性等があつたと推認するに十分である。

右のとおりであつて、結局被告において、原告が右事故係において作業をするにつき、原告の左ひざの疾病の症状増悪を抑制、回避させるよう配慮すべき義務を尽さなかつた点に被告の義務違反があるとみるべきであり、被告は、この点につき原告に対し、安全配慮義務違反の責任を免れないものである。

なお、<証拠>を総合すると、昭和四一年ないし昭和四八年ころにかけて原告は組合の青年部長等として活発に組合活動を行つていたものであることが認められる。しかしながら、右各証拠及び前掲各証拠によつても、このことが特に原告の左ひざの疾病に悪影響を与えたとは認められないから、右組合活動の事実の存在によつても、被告の安全配慮義務の不十分な履行という事実は動かし難いといわねばならない。

四抗弁について

1  抗弁1について

抗弁1の(一)、(二)については、原告の請求原因事実自体が認められないことが前記のとおりであるから、判断の前提を欠き、検討の要をみない。抗弁1の(三)については、右理由欄三3(三)に説示したとおりであつて、結局、昭和四四年一〇月一七日以前及び同日ごろから昭和四五年九月一〇日ごろまでの間に被告のとつた措置については違法の点はないが、同日から昭和四九年三月五日ごろまでの間の措置について被告は安全配慮義務違反の責任を免れないものであり、右抗弁は一部理由があるがその余は理由なきに帰する。

2  抗弁2について

原告が惹起したその他の第一ないし第四事故と、本件事故による原告の左ひざの傷の増悪との事実的因果関係についてこれを認め難いことは二2説示のとおりであり、原告の組合活動と右増悪との関係についても三3(三)説示のとおりであつて、被告の主張はその前提を欠き理由がないといわざるを得ない。

3  抗弁3について

公務災害補償制度において原告主張の慰藉料が補償されるわけではないから、被告の主張は主張自体失当である(尤も、被告主張の療養補償等が本件慰藉料額の算定につき斟酌されるべきことは勿論である。)。

4  抗弁4について

被告の本件責任は、昭和四五年九月一〇日以降の安全配慮義務違反について認められるだけであるから、被告の時効の抗弁は働くに由ない。

五請求原因四について(原告の損害)

前掲各証拠、弁論の全趣旨によれば、原告が、左ひざの本件疾病の増悪により、その生活につき種々の不都合を強いられ、精神的苦痛を受けていること、そしてこのことは被告において予見し、又は予見しえたものであつたことが認められるので、その慰藉料の額につき考えるに、被告の本件債務不履行の態様、程度及び期間、原告の精神的苦痛の性質、内容等に鑑み、特に前記一、二の説示認定、弁論の全趣旨によつて認められる原告は昭和四四年一一月以降三回の入院、手術を受け、現在も通院中であること、一方被告としても、昭和四四年一〇月一七日以降昭和四五年九月一〇日頃まで原告を道順組立等の局内作業につけ当面の措置としては適当な措置を講じたこと、昭和四五年九月一〇日被告は原告をともかく内務職たる普通郵便課事故係に配置換していること、被告の責任は、本件事故発生による原告の受傷に関して認められるものではなく、一定期間内における原告の疾病の病状増悪の抑制回避義務違反たる被告の安全配慮義務違反について認められるものにすぎないこと、原告は、本件疾病による財産的損害について、この疾病につき公務災害の認定をうけて国家公務員災害補償法により療養補償等の補償をうけているものであることを考慮し、その他諸般の事情を斟酌し、原告の本件慰藉料額を金二〇〇万円と定めるのが相当である。<以下、省略>

(海老塚和衛 吉崎直彌 嘉村孝)

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